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2005年04月04日
法王
昨日からずっとローマ法王死去のニュースがつづいている。ボクはクリスチャンではないので、これに関連したニュースには関心がなかった。演説ができないような痛々しい様子も報じられていて、それをめぐる憶測と報道になんの意味があるのかさっぱりわからなかったのだ。
こうおもっていたところ、今日の読売の夕刊に竹下節子という人がいい感じのコラムをかいていた。一般に、社会は若さと力強さを尊ぶから、偉い人は病気で衰えると身を隠そうとする。にもかかわらず、法王がそのような状態になっても退位せず、またしゃべることもできないのがわかっていながらマイクの前にたっていたのは、それ自体が信仰であるからだというのだ。これでハッとした。
つまり、神から与えられた命と法王の使命をまっとうすることが、神への信仰だということだろう。そのことは法王といえどもどうこうすることはできず、ただ生きることが信仰になる。そして憶測だが、その姿を隠さないことで、テレビの前で見守る人たちに信仰とはなにかを伝えようとしていたのかもしれない。
ここでボクは、ボクの好きな親鸞の言葉をおもいだした。彼も「たとえだまされていたとしても、後悔はない」それでも信じ続けるのだといっていた。なんとなく相通じるものがあるようだ。
信仰も全身で全力で命がけでまっとうしなければ、信仰にならないのだ。なんとも厳しいなあ。。
投稿者 osa : 2005年04月04日 22:15
コメント
なにがあっても信仰の対象(法王)を肯定することが、信仰の本質かも。。。
投稿者 ue : 2005年04月04日 23:19
えええっ。
でも、信仰の対象が法王かどうかはわからないですけど、肯定をやめたら信仰じゃなくなりますですね。。
投稿者 おかね : 2005年04月05日 22:55