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2005年02月05日

三人

司馬遼太郎のエッセイを読んでいたらいい文章があった。「今こそ必要なアマチュア精神」というものだ。ちょっと長いけど、引用したい。昭和41年に書かれたものだ。

最近はほんとうに”日本映画”を見ないようになりました。その点、少しはおつきあいのある映画界の人たちに、なんとなく悪い気がしているんです。大げさにいうなら、日本人として忸怩たる想いにかられているんだが、たまに”日本映画”をのぞいても、時間のロス以外の何物でもないことが多いんですね。いい作品もあるらしいんですが、どうも、そういう先入観があって、つい”日本映画”には足が遠のいてしまう。
ある。しかし、別に氏は映画そのものが嫌になった訳ではなく
そのかわりというとお気の毒な話なんですが、"外国映画"の評判作はセッセと見にいく。そのたびに、やはり映画というものは娯楽の中で最高にゼイ沢なものだ-と感心してしまうんです。

だそうだ。ここから

なぜ、日本の映画産業は過去の”栄光”の座から滑り落ちてしまったのか?

と疑問を提示する。そして氏の答えは
映画人のいわゆる”クロウト意識”というやつが、その張本人だと僕は思うんです。映画界が再興するためには、最もよき”アマチュアリズム”が必要だ。純然たるアマチュア精神こそが、映画界を救うと断言してもいいですよ。

とある。ここで、その”クロウト意識”や”アマチュアリズム”が具体的にどうなのかは触れられてはいない。しかし、当時の日本映画界の状況-大企業のシステムとしてしか映画が企画・作成されない状況-がうみだすもろもろの結果を示しているのだろう。
「いい映画を見たい」という欲求は、誰しもが抱いている。ですから、単純なことですが”いい映画”さえ製作していたら、下手な宣伝なんかしなくとも、お客さんは来てくれる。"いい映画"をこしらえるにはドウしたらいいのか。何が、”いい映画”の製作を妨げているのか?それをもういっぺん”アマチュア”の意識に還って考えなければいけない。

とある。もちろん効果的な宣伝は重要ではあるが、氏のいうことの重要性がいまも薄れるものではないだろう。
ぼくは極端な話しかも知れませんが”映画”というものはプロデューサと、監督と、シナリオライターの三人がいればできると思っています。この三人が「これは面白いぞ」と思ったら、会議で検討するなんていう回りくどいことはやめて、とにかく、やりはじめたらいいんですよ。何だ彼だとクチバシなんか容れさせないで、最小限のスタッフが”面白い”と思ったテーマを貫いていったら、絶対にその”映画”はヒットする。これは方程式でもなんでもないんで、小学生にも判る”足し算”なんだ。

そう。評価はあとからついてくるものだ。。

ぼくはいまの映画界が一度つぶれてしまって、その廃墟の中から"三人の仲間"のような最小限の製作グループが洗われてきたときこそ、ほんとうに映画産業が立ち直るときだと思うんです。

現在の映画人たちが「もう映画の時代は過ぎてしまった」などと自嘲の言をはいているのは、ぼくにいわせるならばとんでもない話しで、むしろ”映画”の時代はこれからやってくると信じているのです。

この文章から30年。アメリカ映画はあいかわらず繁栄しているし、日本映画は-アニメーションという新しい分野の隆盛を含めて-復活した。そもそも映画業界の停滞がなぜおこったのか考えてみると、「観客はより楽しくて豪華な映画をみる」→「ハリウッドはより楽しくて豪華な映画をつくる」→「製作技術・制作費の高騰」→「企業はリスクをとらない方向に動く」→「無難な映画」→「観客がこない」→「次回作の制作費がおさえられる」→「観客がこない」といった感じだと考えられる。

ハリウッドの偉いところは、製作技術・制作費の高騰に対してそれに対応できる人材と集金システムを構築してしまったことだとおもふ(なんだか最近はそれも悪循環に陥っているぽいが。リメイクと続編ばっかりだし)。つまり

よき製作グループが出現さえすれば、自然とそうした部門のベテランたちが集まってきて、理想的なシステムが出来上がるんじゃないだろうか。

というループが存在してたのだ。というわけで司馬遼太郎の映画に対する指摘は、基本的に間違っていないし、現在に生きるボクらにもなにやら暗示的なことだ。

投稿者 osa : 2005年02月05日 11:33

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